関寛斎肖像写真
所蔵機関 | 佐倉市教育委員会 文化課 |
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ID | B-PP-03 |
資料名 | 関寛斎肖像写真 |
資料名よみ | せきかんさいしょうぞうしゃしん |
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ライセンス | 各所蔵機関にお問い合わせください |
大分類 | 写真 |
中分類 | 人物・肖像 |
小分類 | |
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作成者よみ | |
作成年(西暦) | |
作成年(和暦) | |
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時代 | 明治 |
場所(地域・地区) | 佐倉 |
説明文 | 関寛斎(1830~1912)の晩年の肖像写真。上総国東中(千葉県東金市)の農家の長男として生まれた。儒学者関俊輔の養子となり、順天堂に入門し泰然のもとで学ぶ。 26 歳の時、銚子で開業するが、万延元年( 1860)に醤油醸造業を営む豪商濱口梧陵の支援を受け長崎に遊学しポンペに師事した。その後、徳島藩に招かれ侍医となる。戊辰戦争が勃発すると新政府側の奥羽出張病院頭取として負傷者の治療にあたった。その後、徳島に戻り徳島藩医学校を創立、明治 6 年( 1873 )、禄籍を奉還し町医者として、以降 30 年間地域医療のために尽力する。貧しい人々には無償で治療を施すなど、地域の人々から厚く慕われた。その後、北海道の開拓を志し、明治 35 年( 1902 )、 72歳にして北海道陸別町の開拓事業を行った。徳富蘆花を通じてトルストイの思想に傾倒し、理想的な農村建設をこの地で目指したが、果たせず大正元年( 1912 )、自ら命を絶ち波乱の生涯を閉じた。 |
備考 | |
寸法縦(cm) | |
寸法横(cm) | |
寸法高さ(cm) |