佐藤進肖像写真
所蔵機関 | 佐倉市教育委員会 文化課 |
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ID | B-PP-07 |
資料名 | 佐藤進肖像写真 |
資料名よみ | さとうすすむしょうぞうしゃしん |
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ライセンス | 各所蔵機関にお問い合わせください |
大分類 | 写真 |
中分類 | 人物・肖像 |
小分類 | |
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作成者よみ | |
作成年(西暦) | |
作成年(和暦) | |
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時代 | 明治 |
場所(地域・地区) | 佐倉 |
説明文 | 佐藤進(1845~1921)は、常陸国久慈郡太田(現・茨城県常陸太田市)の酒造業・高和清兵衛の長男として生まれ、東之助と名付けられた。母・たみは、尚中の妻・さだの姉にあたることから、志津と進は従兄妹同士の関係にあたる。 安政 6 年( 1859 )に東之助は順天堂に入門し、介石と名を改めた 。慶応3 年( 1867 )に志津と結婚、翌年 に戊辰戦争が起こると戦地で治療にあた った 。明治 2 年( 1869 )にドイツに留学し、同 7 年ベルリン大学医学部の全過程を修了し医学博士号を得た。同 8 年帰国後、尚中と共に順天堂の経営にあたり外科を担当した。同 10 年の西南戦争の際には大阪陸軍病院で 、 同 22 年の大隈重信外務大臣の受難や、同 28 年日清戦争講和全権大使として来日中に狙撃され負傷した李鴻章に対し、最新の医療をもって治療した。晩年は、妻である佐藤志津の遺志を継いで女子美 術学校の校長になり、女子教育にも尽力した。 写真は軍服をまとった佐藤進を写したもので、下部に「廣島市字中島元安橋西 片山精三」とあることから、進が広島に駐留していた際に撮影したものと考えられる。日露戦争時にもこの写真店で撮影されていることがわかるが、容貌からするとこちらの写真は、日清戦争時の進を写したものと推測される。 |
備考 | |
寸法縦(cm) | |
寸法横(cm) | |
寸法高さ(cm) |